今日、親しい友人の飼い猫が天国へ旅立った。
かなしくてさみしいけど、喪失感を覚えるほどひとつの命に関われて良かったなと思う。そして命について考える。
ちょっと重い内容かもしれないけど大事なことだと思うので残しておきたい。
命は重いと言われる。
亡くしたことでその存在の大きさを知ったり、多数の人に影響を与えたり人生観をも変えたりする。
でも私は命は軽いと思っている。
ちょっとしたことで命は無くなるし、
例え一つの命を奪った人間でさえもその人生をもって償うということは滅多にあるものではないし、巨大な自然災害が起きれば一人の人間では成すすべもない。
お腹を痛めて生んだ子供を殺める人もいれば、
赤の他人のためなら犠牲になれる人もいるし、
自ら自死を選ぶ人もいる。
「軽い」というのは軽々しく扱って良いという意味ではなく、人は脆いものだということ。身体は丈夫に出来ていても、心はほんの拍子に崩れてしまったりする。反対の人もいる。
だから私は、何時ふわりと飛んでいくかわからぬ周りの人や生物やモノ、そして自分自身の魂を大事に扱っていきたい。間違いながら、苦しみを楽しみながら。(素敵すぎるヒマつぶしさ~♪まぼろし街道/the band apart)
いつか消えてしまうので。
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意識が魂のなすものだとすれば、その器たるこの人間の体は容れものに過ぎないのではないかと思う。
私自身は脱毛もしているし、ちょっとした整形(造形を変える類ではないけど)もしている。それを意識が高いとか見た目にこだわるとか言われることがあるけど、容れものであるいつか朽ちる肉体を気に入っていたいからなのである。
イメージとしては車が近いと思う。
操作している何某=魂で、走っている車体=肉体・身体。
ブレーキしたりアクセル踏んだり時には側溝にハマったりするかもしれないけれど、ガソリンがある限り動き続けるしどこにでも行ける。
大通りからそれても道はたくさんある。
伊坂幸太郎氏の小説「砂漠」にもそんなフレーズあった気がする。“どこにでもいけるのに自分で線を引いてここから出たらアウトと思ってる”みたいな。うろ覚えだな・・・
キリシタンでも仏教徒でもないが、まぁなんとなく、故人や亡くなった生き物たちとはいつかどこかで会えるのだろうなと思っている。来世なのか混ざり合うのか。
どうあがいたって死後のことはわからない。でも願って本当にそうなったらいいな。
だって何らかの縁で関わり合ったんだから、何かの拍子で繫がったっておかしくはない。そう信じている。
彼の冥福を祈って。