【輪るピングドラム感想】箱の中のりんご

※多少ネタバレを含みます

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輪るピングドラムアマゾンプライムに全話公開されていたので

数日で一気に観返した。

ら、こんな話だったかなあと違和感を感じながら

20話以降は号泣しながら観ていた。

監督はみんな大好き少女革命ウテナでおなじみの幾原監督。

 

以前観たのはおそらく5年前頃だったと思う。

当時は雰囲気に飲まれてただ「なんだかよくわからんが、陽毬ちゃんかわいいしペンギンもかわいいし、なんかいいじゃんやくしまるえつこ」くらいの軽い気持ちで脳内好きなアニメリストに加えたのを覚えている。

アニメはすぐに途中で切ってしまうゆえ全編観終わったアニメが少なくて、観終わったアニメ=好きなアニメという感じ。飽きちゃうんですよね展開がありきたりだったり雰囲気がずっと同じだったりすると。

 

色んな解釈があるとは思うが、私にとってこれはぐるぐる輪のように回る愛の話だった。

こどもブロイラーという聞こえの悪い施設に放り込まれた愛されない子供たち。その子供らはいずれ透明な存在として処理されてしまう。

冠葉は昌馬に林檎を半分分け与えることによって二人とも生きられることになった訳だが、その林檎は冠葉の箱の中にあった。

眞利は人はそれぞれ箱に入っていると言った。

ここでいう箱とは物理的な物ではなく人の心の中と解釈する。

この林檎を愛(ピングドラム)に置き換えると、

“冠葉の箱の中にのみ林檎=愛がありそれを発見した”のではなく、

“誰の箱の中にも林檎=愛があり冠葉はそれを見つけることができた”のだと思う。

 

つまりはピングドラムは自分の中にあるのだと。

ピングドラムを探すためには高倉家三人が故意に追いやった過去の記憶を思い出す必要があった。

なぜなら彼ら彼女ら3人の始まりには愛があったからだ。

解けない家族の呪い・罪の呪縛と、愛を分け与えあった他人が家族として過ごす呪い。

呪いを背負ってまで守りたいものを何度か失ってまた取り戻して、最後には守ることができた。

 

おそらく、前回観たときと今とでは自分の心の在り方が異なるのが重要なポイントだと思う。

数年前、私は常に満たされていたのに心はいつも乾いていて、飽食といっても良い日々を送っていた。

食べ物も住む所も初めての家族と言えるような存在も正直困ったことがなかった。それが数年続いたので頭が考えることをやめたのだと思う。

自分の人生を進んでいるようで昔から肉親にそう望まれたように、良い人でいること。良い人でいれば何もかも与えられたし、何よりさみしい思いをすることがなかった。

それでも何か違う、このままでは人生が自分の知らないうちに終わるかもしれないと感じながらも居心地の良さから自ら立ち上がることをしなかった。

そんな受け身の人生で、箱の中の愛に気付ける訳がなかったのだ。

 

そして三年前くらいに幸か不幸か環境が変わり、マイナスからのスタートとなって初めて満たされていたことに気付きやっと自分の人生を進めることが出来ている今、ピンドラを観て色んなことを思い出した。

 

住む所が変わった。

本籍が変わった。

仕事をちゃんとしないといけなくなった。

ーーーけどそれはとても表面的なことで、きっかけに過ぎなかった。早かれ遅かれ他人任せの人生は綻んでいく。

人に初めて裏切られたと思った。

ーーーこれも解釈する側の話で別に生命まで奪われるわけじゃなかった。代わりに色んな事が始まった。

 

すべてのことに有り難いと思う気持ちを忘れないようにしたいなと思う。

箱の中のりんごに気付けるように、そして人にりんごを分け与えられる人でありたい。

 

あと泣くのは心が浄化されてとてもいい!!!!!!気がする!

おやすみ世界!